価値

「僕はいま自分が取り組んでいることの価値がよくわからないのです。」

昔とあるプロジェクトにいた時、社内のとある方にこういった相談をしたことがある。そのとき頂いた答えは(実際のものとはあえて違う書き方をするが)こういう感じのものだった。仮に何かに取り組んで結果が肯定的なものでなかったとしてもそれはその仮説が良くないことを示唆するという価値を産んでいる。その結果はまた違う仮説を産むものにつながるかもしれない。また、もしビジネスっぽい領域について知りたいのなら、ビジネススクールの初級向けのカリキュラムなどを取ってみるのは有りかもしれない。など。

後者についてはなるほど色々知らないことがあるなぁと思い、それから少し社会勉強のようなことをした。マーケティングや経営の基礎的な話や、実務的なレイヤーになるがロジカルに課題を洗い出して受け手に納得してもらえるような形で伝える手法論などを学んだ。これらは今でも自分の中で活きていることがあるように思う。

しかし今振り返ると自分が知りたかったのはそういうことではなかったはずである。僕は単に、自分の成したことが世の中から無視されたくなかったのだと思う。僕は数理的に物事を考えるのがそれなりに得意だったのでその流れで研究のような領域に近いところにいた。その選択は僕に活力をもたらしたときも多々あるが、研究というのは概して世の中での活動から遠いものでもあった。学会での発表などは少数の集まりに何かを聴いてもらう場に過ぎない。時間を掛けて仕上げて査読も受けたものの特に注目もされないまま忘れされていく論文がいかに多いことか。このことは僕が抱いていた願望、自分の成したことが世の中から称賛されたいとまでは言わなくともせめて無視はされないで欲しい、ということとは今思うとそれなりに反するところがあった。

もっとも、誰かのやったことが重宝もされないのは研究などの特定の領域に限ったことでなくどんな仕事でもよくあるように見える。悲しいことだが、誰かが意味があるといって大真面目に旗を振って人々が集まった先にあったものは虚像であった、といったことはどこにでもありえてしまう。遠いどこかにも、もしかするとすぐ目の前にも。


改めて僕の思っていた価値というのはなんだろうかと考えてみる。世の中から無視されたくないなどといった思いの中にある世の中とはなんのことだろうか。2~3人のなんだかよくわからない人の集まりはあまり世の中っぽくないかもしれないが、200人とか300人ならいいのか。少人数でも大企業や国家の幹部みたい人たちならいいのか。あるいは人だけではなく、地球の大気とか地上の動植物たちも含むのだろうか。

自分を受け入れて欲しい「世の中」なるものはあまりに存在が漠然としている。世の中は実は存在しないなどと狂ったことを言いたいわけではない。何かを生み出してそれを受け入れて欲しいと思っているとき、その欲望の先に成果を受け入れる人の姿があまり具体的に浮かんでいないのならそれは欲望の形として健全ではない気がするのである。

職業が技術者だろうがなんだろうが他者という得体のしれない存在に思いを馳せることからは逃れられないのだと思う。人には素晴らしい面もあるだろうが、そうでない面も多々ある。というか、世の中というのは正直よくわかんなくてどうでもいい他者だらけなのではないだろうか。では自分が別段素晴らしいとも思っていない人にかろうじて受け入れられることの意味はなんだろうか?

こんな疑問を仮に持ったのだとしても、世界に永く残り続けて欲しいとか、大事にしたいと思えることがいくらかはあるだろう。それを追求していれば、いつかは最初作り上げたいと思っていた価値にたどり着くのではないかと思う。この追求は実際には拙い悪あがきみたいなものかもしれないが、むしろほとんどの物事が忘却される儚い環境の中で足掻き続ける胆力と信念こそが生きる上で大事なのではないか。ここでいう大事というのは他者ではなく自分にとってである。いかなる成果も最後には自分のためになっていなければならない。


久しぶりにあまりまとまりのない文章を書いた。